ふった男を見返す、ふった女を見返す
失恋した時に、「振った相手を見返してやりたい」とか「後悔させてやりたい」という気持ちになることがあります。
あなたがこうした思いを持っているとしたら、あなたはあなたをふった相手の虚像に執着している状態にあります。
相手はもうあなたのことを考えていない、もしくは、考えたくないのに、あなたは未だ相手の事を考えています。
ふった相手を「見返してやる」、「後悔させてやる」と言うあなたの怨念は、あなたがそう思えば思うほど肥大していき、相手の虚像はあなたの中でどんどん大きくなります。
あなたは、あなたのことをふった特定の人物に、あなた自身を感情的な鎖でつないでいるような状態なのです。
そういう状態のあなたは、前に進めません。
それでも、悔しさと復讐の思いを原動力に、外面的、または、物質的な状態を変えることは出来るでしょう。
きれいになるとか、痩せるとか、物質的に裕福になるとか。
しかし、心はあなたのことをふった特定の人物に囚われたままです。
ふった相手を見返した、後悔させたはあなたの主観的判断
たとえ、あなたが頑張った後に、ふった相手を「見返せた」とか「後悔させることができた」としても、それはあなたの中でのあなたの主観的判断でしかありません。
主観的判断とは、あなたが勝手に思い込んでいるだけということです。
後悔させたと主観的判断を下せれば、まだいいですが、それができなければ永遠に恨み続けることになります。
このように、ふった相手を見返すというモチベーションで、自分を磨こうとか頑張ろうとか考えると、更なるもがきを促進するだけです。
相手を恨む精神状態が続くと身体機能に影響を与え、病気になります。
見返すことをやめる
先ずは、ふられたという事実に対する、あなたの感情的な鎖を外さなければなりません。
ふられたという事実、つまり、相手が「あなたと付き合わないことを選んだ」、または、「元々付き合う気が無かった」ということを単なる現象と捉えます。
たとえそれが、あなたには理解できなくても、不条理に思えても、相手には相手の都合があって、あなたをふるという行動を取ったのです。相手がどんな言い訳をしたかは、問題ではありません。事実は、相手が言い訳をして、あなたをふったということです。
その過去の現象、すなわち、相手の都合があってあなたをふったという現象に対して、あなたが感情を付け足しているのだということを理解してください。あなたは、あなたの感情と言うフィルターを通して、過去の現象を見ているというような感じです。
その感情は、恨み、憎しみ、悲しみ、妬み、悔やみといったようなものでしょう。
実は、あなたの感情は、あなたの中にあり、相手があなたをふったという現象にも、相手にもありません。
あなたの「見返してやる」、「後悔させてやる」という思いも、その根底にある感情もあなたの中にだけ存在するのです。
だから、あなたの中にある「見返してやる」、「後悔させてやる」という思いの根源を無視して、相手を「見返してやる」、「後悔させてやる」と頑張っても、原因があなたの内にあるのに、外に向けて何かしようと、もがき苦しむだけになるのです。
映写機から出ている映像を変えようと、映写機本体ではなく、スクリーンに映し出された映像を追いかけているようなものなのです。
感情の客観視
虚像を追いかけ続ける状態から脱出するには、あなたの「見返してやる」、「後悔させてやる」という思いの根底にある感情を客観視する必要があります。
ふられた体験に対するあなたの感情は、恨み、憎しみ、悲しみ、妬み、悔やみ、それとも違う感情でしょうか?
感情を確認したら、そんな感情を持っている自分を容認して、いたわり、「もういいんだよ」って許してあげましょう。
そして、憎らしく、恨めしく思っていた相手の都合を認めて、許しましょう。どんなにひどい仕打ちをされたとしても、あなたには到底理解できない相手の都合があってやったことだということを認めて、許しましょう。
許せないですか?あなたは、あなたの嫌な感情が相手のせいだとして、相手を許せないでいるのです。でも、あなたの嫌な感情は、あなたが自分でつくり出したものなので、あなた次第で変えることができるのです。
相手を許すことができれば、もう相手を「見返してやる」必要も、「後悔させてやる」必要もなくなります。許せたら、もう相手の虚像はあなたには不要なものとなり、どこかへ解き放つことができるようになります。
足かせとなっていた鎖をほどいて、前進することができるのです。
許せなければ、今は許せなくてもいいので、嫌な感情をもつ自分と、都合があった相手の両方を客観視して、そこにあなたが固執する価値がはたしてあるのかを、自分に問うてみてください
ふられたということに、あなたが執着する価値が無いと取れるようになると、許せるようになります。
今のあなたの観念が変わると、今まで執着していたものに価値が無い、または、執着する必要が無いということに気づきます。
観念について興味がある方は、前の記事“観念とは”をご覧ください。