いき過ぎた論理的思考
論理的に話せる人は頭のいい人として、周りから一目置かれます。
しかし、論理的思考力が絶対であると捉えている人は、全てを論理的に説明しようとしたり、人を論理で説き伏せようとしたりして、時にはその言葉は暴力的でさえあり、うざいと煙たがれてしまいます。
知識豊富な自分の考えついたことは人のためになると信じて、自分の考え方の押し売りをしたりもします。
自分の考え方が一番と信じて、人の言うことに聞く耳を持ちません。
こういう人が仕事場の上司だと部下は苦労します。
何を言っても、いちゃもんをつけてきたりします。
何を言っても、いちゃもんをつけてきたりします。
理屈で人を打ち負かすのが得意な人は、このタイプの人が多いでしょう。
こういう人は、頭の中が、ゴミのような思考(自分では素晴らしい考えと信じて疑わない)でいっぱいで、汚染された状態なのです。
頭の中にゴミ思考が多すぎると、真実が見えない状態になります。
ガラスが曇ると窓の外が見えないような感じです。
いくら博学な人の思考でもそうです。
論理的思考のワナ
論理的に説明することのベースには、社会の常識と一般的に認められている学問と科学に関する知識があります。
しかし、科学や学問というのは、ものごとを「こういうものである」と判断するものですので、個人が自由に感じて考える可能性を制限するものにもなり得ます。
論理は、学んだ知識と一般常識の上に形成されるので、本をただすと結局はどこからかの情報の請け売りであります。
それらの情報を、話の中での肝となる点(証拠)として使って、納得してもらう説明を組み立てていくのです。
論理的思考は、本来人間が持つ感受能力と創造性の妨げになる可能性があります。
論理は、学んだ知識と一般常識の上に形成されるので、本をただすと結局はどこからかの情報の請け売りであります。
それらの情報を、話の中での肝となる点(証拠)として使って、納得してもらう説明を組み立てていくのです。
論理的思考は、本来人間が持つ感受能力と創造性の妨げになる可能性があります。
素晴らしいアイディアには、直感が関わっていることが多いと言います。
コピー機を発明した、チェスター・カールソンは、コピー機のアイディアを直感によって得たと言ったそうです。
論理的に考えて考えて問題を解決する癖がついているので、論理の上にまた論理を吸収しようとします。
そして疑問にぶちあたると、調べたり、本を読んだり、セミナーに参加したりして更に学んで更なる知識を得るのです。
答えを、外に追い求めつづけるのです。
「学べば学ぶほど、どれほど自分が無知かということに気づく」ということを、ソクラテス、アインシュタイン他、多くの歴史上の著名人が言っています。
これは、物事は掘り下げれば掘り下げるほど、更に大きな疑問にぶちあたるので、追及しだしたらきりがないということをさとしています。
論理的思考に囚われないようにするには
学んで知識を蓄えることは大切ですが、学んだ知識を有効活用しても、絶対に正しいのものとして捉えないことが、考え方に柔軟性を与えます。
たとえ常識とされていることでも、一つのとらえ方として見るのです。
常識を疑えと言っているのではありません。疑いもせず、絶対正解とも思わずというところでしょうか。
たとえ、素晴らしい情報だから身近な人に教えてあげたいと思っても、押し付けないことです。
自分の中で価値がある事は、他の人にも価値があるとは限らないのです。
これは、自分が信じる宗教を人に押し付けるようなものです。
知識豊富な頭のいい方ほど、論理的思考の落とし穴にはまりやすいものです。
人との会話の中で、人から聞くことを、自分の今までの知識と経験で判断しないように、中立な立場でいられるように、心掛けるのがよいかと思います。
あなたの価値で、ばかげているとか、くだらないと思うようなことでも、相手には違うという事を認めて、いちゃもんをつけずに聞いてみたら如何でしょうか?
疑いの気持ちがあっても、否定せず素直に聞いて、そういう考えもあっていいじゃないかと、自分と違う考えをする人もいることを肯定してみてください。
自分と違う考えの人がいるのは当たり前ですので、それを許せなければ、あなたには敵が多すぎるということになります。
どうして自分の正論がわからないのだろうと他人を責める前に、他人が違うことを許して、自分の考えが固執していることに気づいて認めなければ、この先もずっと他人が自分を理解してくれないことに苦しむでしょう。
科学で説明できないからと言って否定しないことも大事だと思います。
科学的に証明されていることでも、「科学的に証明されている」とニュースとかで聞いているだけで、具体的にどのように証明されているかは知らないことが殆どですよね?
「科学的に証明されている」とある筋から聞いただけで、私たちはそういうものだと思い込んでいるわけです。
実際に自分で証明できるわけではないのに、それを信じているのもおかしな話です。
結局は、なんに対しても判断を下さないのがいいような気がします。