あなたは自由に生きていますか、それとも、自由じゃないですか?
これって、とっても抽象的で漠然とした質問ですよね。自由にも色々な自由があるでしょうし、人それぞれ自由に対する捉え方も違うでしょう。
自由とは何か
一般的には、思うとおりあること、ものごとをするのに障害がないこと、個人の権利が侵されないことなどを指す時に、自由という表現が使われます。
自由とは何かを定義することは私にはできませんので、ここにいろいろな人の自由に対する意見を挙げてみます。
- 自由とは、好きなことを好きなだけできること。
- 私たちは、社会ルールの中で生きているが、その中で常に自由に自分の行動を選択することができる。
- 自分を束縛して自由を奪っているのは、自分自身である。
- 私たちは、いつの瞬間も自由である。自由はそこに存在している。
- 肉体的な自由だけが、自由ではない。
- 精神的な自由は誰もが持っており、個人の意志は常に自由である。
- そもそも自由というものは存在しない。
- 人間として生きている以上、完全な自由は無い。
- 常に社会的制約がある訳で、自由とは言っても完全な自由を意味している訳ではない。
- 人は、自由な状態には耐えられない生き物である。
などなど、様々な意見がありますが、どう思います?私は全て納得できるなあと思いました。他にも意見があれば教えてください。
自由という言葉の魅力
自由って言葉は響きも良くて、魅力的だと感じるのは私だけじゃないと思います。
特に、私にとって魅力的に感じるのは、精神的自由よりも、金銭的自由、物質的自由です。自由を手に入れるという時、経済的な余裕や贅沢な暮らしに結び付けて考えるのは私だけではないのでしょうか?
巷には自由という言葉を使った誘惑がたくさんあります。「自由を手に入れましょう」と、人々を駆り立てる人たちがいます。そして、あなたの感情を刺激し、購買行動を起こさせます。
知らない情報や仕組みを提示されると、あなたは、まるで自分が自由でない、檻の中にいて真実に気づかない無知の世界の住民の様に感じたりします。知らない世界に対する、あなたの知的好奇心は刺激されます。
そして、あなたが体験していない世界に自由があるのではと思うようになり、あなたは体験を得るためにお金と時間を使います。そこに行ったら自由になるかどうかの保証はありませんが希望はあります。
何をもって自由と言うかが人それぞれであいまいすぎるので、実際は自由なのかどうかも判らなかったりします。
でも、自分の判断でお金を払って、未知の体験を買うのですから、自分にとって効いても効かなくてもいいのです。やってみなければ、わからないことがほとんどですから。しかも、タダだと人は価値がないとみなす習性があります。何かを学ぶ時、お金を払っているのは実は、サービスに対してではなく自分に対してなので、払った方が価値を見出せるのです。
結局のところ、効果あるかないか、自由かどうかは、個人の主観的判断であり、全ては自己満足できるかどうかなのです。そして、それでいいのだと思います。
私も、自己満足の為に、自己投資として体験を買うためにお金を使ってきました。
自由を追えば追うほど不自由になる
自由を手に入れたいが為に、新しいことを学んだり体験するのですが、知れば知るほど、自分の状況が不自由だと思えてくるのは何故でしょうか?
それは、体験していない世界に自由があると思っているからではないでしょうか?いまここには自由が無いと思っているからじゃないでしょうか?
体験していない世界に自由があるなら、自由は永遠に得られません。
そう考えると、自由というのは幻想かもしれません。上の意見にあったように、本来、人間には自由というものが無いから、体験していない世界に自由を夢見て追い求める習性があるのかもしれません。
自由でないことを選ぶ
私たち人間は、自由を追い求めながらも、自由でないことを選択する習性があります。自由でない状態が心地よくて安心するのだとも言えます。自由すぎると、どうしたらいいのか分からず不安になり、戸惑ってしまったりします。
社会には、ルールがあり、それに沿った生活を送るのが当たり前です。別にそれで不自由だとは感じません。私たちは、社会という枠組みに当てはめて自分を見ます。そういうものが無いと自分の存在価値を見出せなかったりします。
やはり、人間は自由に耐えられないというのは、ある意味その通りかなと私は感じます。
私たちが口にする言葉にも、自由でないことを好む習性が現れます。
例えば、自分の意志で選択したことを「しなければならない」と言うこと。そして、「あー、忙しい」と自由な時間が無いことを誇ることなどがそれです。
「しなければならない」は、つい使ってしまう表現です。特に、気乗りしないことをやる時や、早く場を切り上げたい時などに、言い訳のように使われることが多いです。
実際は「しなければいけない」ということは無く、自分の意志で選んで「する」のですが、「しなければならない」という表現を選んでしまいます。例えば、「宿題をしなければならない」とか、何かの「料金を支払わなければならない」とか、「料理しなければならないとか」も、実際はしなくてもいいのです。
しないと、先生に怒られたり、超過料金の請求がきたり、家族が腹をすかせたりという結果が待っているかも知れませんが、それでもしないことも選べるのです。そういう結果を招きたくないから、自分の意志で「する」のです。
この「しなければならない」という表現は、自由でない状態を表すものです。逆に、単に「する」とか「したい」は自由を表すと言えます。「しなければならない」という表現をつかうことで、自由でないという気持ちを強調しているのです。自由でない方が心地がいいからです。
忙しいことを美徳だと思うことや、自分の忙しさに酔うという行動も同じで、自由じゃない自分でいるほうが自分に価値を見出せて、安心するのです。こういう人は、暇でやる事がないことには耐えられません。「自由な時間が欲しい」と言う忙しい自分に酔っているので、本当に自由な時間が出来たらどうしたらいいか困ってしまいます。
この様に、私たちは、日頃意識しないで自由でないことを選んでいます。でも、社会で生活するには、そうでないと機能しないことがあまりにも多いですし、自由じゃないという風に考えてストレスになったりは、よほどのことでない限り起こりません。
精神的にはすでに自由
私たちは肉体的な自由は無くても、精神的には自由であるという考えは私にはしっくりきますけど、どう思いますか?
実際に見ている事象をどう捉えるかは、私たち個人の自由です。思考するのも、しないのも自由に選択できます。
精神面からすれば、私たちは既に自由であると言えます。今の状況を、自由と思うのも、自由じゃないと思うのも自由です。
私たちは、肉体的に制限された状況で、または、社会と言う枠組みの中で生きつつも、自分が状況をどう捉えるか、どういう意志選択をするかは常に自由なのですが、自分で自分を縛り付けて不自由になることを選択しているだけなのではないでしょうか?
自由は追うものではなく、常に存在しているのかも知れません。